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行動経済学と生成AI

 先日、地下駅のホームから地上へ続く階段を上っていると、各段に「消費されるカロリー量」が表示されているのを目にした。隣にはエスカレーターも設置されているが、この表示は利用者に階段利用を促す仕掛けの一つだろう。通勤時間帯の混雑緩和を目的に、行動をさりげなく誘導する設計と考えられる。
このような工夫は、「Behavioral Economics(行動経済学)」の考え方に近い。行動経済学は、人間が常に合理的な意思決定を行うという従来の経済学の前提に疑問を投げかけた学問分野である。実際の意思決定は、認知バイアスや環境要因、心理状態に大きく影響される。こうした知見はマーケティングや公共政策にも応用され、選択の自由を保ちながら望ましい行動へ導く「ナッジ」として知られている。
 近年、この「人の行動を理解する」という文脈において、新たな存在として注目されているのが生成AIである。AIを人生相談の相手として利用する人も増え、「AI上司」や「AI恋人」といった使い方も話題になっている。では、なぜ人はAIに相談するのか、その疑問を解決するため、生成AIに対して「人が気に入る回答をするために、行動経済学的な手法を用いているのか」と問いかけてみた。回答は、「人の心理は考慮されているが、特定の行動経済学テクニックによって人を操作することを目的としているわけではない」とのこと。
ただ、人間の認知特性をある程度考慮しており、例えば、人は長い文章を最後まで読まない傾向があること、難解な言葉は理解されにくいこと、選択肢が提示されると安心感を持ちやすいことなど、いくつかあるようだ。ただし、これは特定の行動へ誘導するための設計というより、ユーザー体験を改善するための配慮だという。
 それよりも、AIが相談相手に選ばれる理由としては、人間は感情や状況によって態度が変化するが、AIは基本的に一定の応答を維持するところかと想定される。否定されにくい、感情的に怒られない、いつでも応答が得られるといった特徴は、心理的な安心感を生み出す。人間には個々人の都合があるが、AIにはそれがなく、客観的・合理的な意見がAIに惹かれてしまう理由の一つと考えられる。
 では、AIが安心感と合理性を提供する存在だとすれば、人間の価値はどこにあるのだろうか。一つの示唆は、人間の「揺らぎ」にあるのではと考える。行動経済学において、人は同じ刺激が続くと次第に慣れてしまう現象を「快楽適応(Hedonic Adaptation)」と呼ぶ。安定した存在は時間とともに刺激を失い、やがて関心が薄れる可能性がある。常に適正な回答がある状態においては、その有難みが薄れ、やがて依存状態となり自身で考えることを疎かにすることが危惧されるのだ。「今日は叱責が厳しいな」や、「この前、言っていたことと違う」と上司の一貫性の欠如に頭を悩ましたことはないだろうか。こうした揺らぎは、非合理性でしかない。しかし同時に、人間関係に変化や奥行きを生み出す要素でもあり、共感や偶然性、状況に応じた柔軟な判断といった人間特有の要素は、AIには再現しにくい領域でもある。その揺らぎの中だからこそ、承認された時に大きな喜びを感じ、より深い信頼関係を構築する、人間ならではの繋がりできるのではないだろうか。

民谷 成