「如是我聞(にょぜがもん)」は、仏典の冒頭に置かれる言葉で、「私はこのように聞いた」という意味を持つ。この言葉が示しているのは、語られる内容の正しさではなく、「どの立場で、誰が聞いた話なのか」という点である。仏典において語り手は、自分を全知の存在として位置づけない。あくまで、自分は聞き手であり、伝え手であるという立場を明確にする。事実と解釈の間に距離を置き、主観の所在を曖昧にしていない。
物流コンサルの仕事に置き換えてみると、この距離感は極めて実務的だ。私は、誰から、どの立場の話として、それを聞いたのか。それは現場全体を俯瞰した話なのか、それとも特定の担当者の視点なのか。責任を負う立場の主観なのか、日々作業を行う現場の実感なのか。その切り分けをせずに、業務設計に入ることはできない。
物流の現場には、定量的な情報が日常的に蓄積されている。しかし実務に踏み込むと、それだけでは説明できない話が必ず出てくる。「このSKUは欠品しやすい」、「月末はこの作業がきつい」、「この帳票は使われていない」。こうした言葉は、ヒアリングの中で初めて現れる。注意すべきは、これらの言葉がすべて主観であるという点だ。主観であること自体が問題なのではない。問題になるのは、その主観が誰のものか分からないまま、事実のように扱われてしまうことである。例えば「欠品しやすい」という一言でも、発注担当者、現場作業者、営業では意味が異なる。発注ロットの問題なのか、補充タイミングの問題なのか、あるいは営業都合への不満なのか。立場が変われば、設計上の論点も変わる。主観の所在を確認しないまま設計に進めば、一人の感覚が全体の前提として固定され、後工程で矛盾が噴き出す。結果として、誰のための仕組みか分からない設計が出来上がってしまう。
近年、主観の登場人物として新たにAIが加わり、「AIによると」という言い回しを聞く機会が多くなった。しかし、AIの判断を一つの主観として扱う必要があるのかについては、慎重であるべきだ。AIが担っているのは、選択されたデータ、定義された制約条件のもとでの計算結果であることが多い。だからこそ「AIはこう判断した」という言い方自体が、思考停止を招いていないかを疑う必要がある。判断が主観ではないのであれば、なおさら問われるべきなのは、その判断がどのような前提で生まれたのかである。なぜその条件を置いたのか、どの判断をAIに委ね、どこを人が担うと決めたのか、その結果を誰が使い、誰が責任を負うのか。それらは全て、人側の意思決定の問題だと考える。
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如是我聞-前提を確かめる設計思想-
SCM/ロジスティクス
2026年02月02日
